2024年4月28日・・・苦難を忍耐するため聖徒は召された
このためにこそ、あなたがたは召されました。キリストも、あなたがたのために苦しみを受け、その足跡に従うようにと、あなたがたに模範を残された。
1ペテロ2:21(19-25)
信仰の守りと祝福の道を2章の初めから見てきました。みことばを慕い求める、教会に築かれ礼拝を献げる、世にあって立派な行いをすることです。2章の最後の部分から、善を行って労苦があっても耐え忍ぶことが祝福の道であることを確かめましょう。
《神が喜ぶことは善を行って受ける苦しみを耐え忍ぶことです(19-20)》
信仰の故に不当な害を受けることは、悲しく辛いことです。しかし信仰者は救いによって、「神の御前における良心」(どうすれば神が喜ぶかを見分け実行する力)を与えられているので、困難の中でも正しい生き方を守ることができます。罪の支配する社会の中では「長いものに巻かれ」る方が害を受けにくく、正義を貫く道は困難を覚悟しなければなりません。主は、聖く正しい故に人々に憎まれ、苦難を受けました。しかし主を信じる信仰に立って「耐え忍ぶ」(希望をもって、取り組み続ける)者を主は喜び、守り支えてくださるのです。
《キリストのこの模範に倣うため私たちは救われました(21-23)》
主は、弟子たちに「蛇のように賢く、鳩のように素直でありなさい」と教えました。無防備で愚かなため、あれつきを起こし、不必要な害を被ってはいけません。しかし、主が導かれた信仰を守り抜き、証しするためならば、反対も迫害も恐れない信仰を主は喜ばれます。使徒ペテロは「このためにこそ、あなたがたは召されました」と告げます。苦しむこと自体は救いの目的ではありませんが、苦しみに耐え抜いて、主に喜ばれる者とされるために主は苦難に召しました。そのために、(ヘブル人への手紙11章に記されている)昔の聖徒たちが試練を忍び、キリスト「も」、苦難を忍ぶ模範を示されました(ヘブル12:1-2)。私たちは、キリストを信じて罪を赦され、キリストと共に罪に死に、神と共に生きる者とされました。それを通して主に似てゆき、主を証しする祝福の故に、試練は幸いであり、喜ばしいことです(マタイ5:3-10)。
《これはキリストの十字架によって私たちが神に戻された道です(:24-25)》
ペテロは改めて、キリストの十字架によって救われた祝福を伝えます。「キリストは自ら十字架の上で、私たちの罪をその身に負われ」ました(ヨハネ10:18,ピリピ2:6-8)。その目的は「私たちが罪を離れ、義のために生きるため」です(マルコ10:45,ピリピ2:10-11)。その結果、罪を癒やされ、神の元に戻されました(ルカ15章,19章)。主は、神の前から離れ失われた私たちを、ご自身のもとに連れ戻すために、人となって世に来られ、十字架で死なれました。この主の働きを受け継いで、主と共に、失なわれた人々に福音を伝え、連れ戻すために教会はこの地上に遣わされています。クリスチャンはそのために、労苦を主と共に負うのです。主は、共に労苦する私たちを友と呼び、喜んでくださいます(箴言17:17)。