2024年5月19日・・・気前がいいぶどう園の主人
高木正勝天の御国は、自分のぶどう園で働く者を雇うために朝早く出かけた、家の主人のようなものです。マタイ20:1(1-16)
天の御国はどのようなものかを人々が理解できるようにイエス様はぶどう園で働く者を雇うために朝早く出かけた主人のたとえ話を語られた。このたとえ話の箇所から神様のみこころを求めよう。
《だれも雇ってくれないからです(1~7節)》
ぶどう園の主人は働き手を雇うために朝早く市場に出かけて行った。1デナリは当時の労働者の1日・・・分の賃金だ。早朝に人手が確保できなかったのか、主人は9時ごろにも出て行って別の人たちを見つけて「あなたがたもぶどう園に行きなさい」と雇う。さらに12時ごろと3時ごろにも同じようにした。なんと5時ごろにも出て行き雇い入れた。彼らはその時間までだれも雇ってくれなかったという。夕方近くにぶどう園に行ってもあまり働きにならないように思える。しかし、早朝から働いた人にも5時ごろに来た人にも同じ1デナリずつが支払われた。≪主人に不満をもらす労働者たち(8~12節)》 朝早くから働いた労働者たちは主人に不満を言う。その言い分は「一日・・・の労苦と焼けるような暑さを辛抱した自分たちと最後に来て1時間だけ働いた人たちを同じように扱った」ということだ。それでは不公平ではないか、という雇い主に対する不満である。しかし、主人は「私はあなたに不当なことはしていません。あなたは私と1デナリで同意したではありませんか」と答え「自分のもので自分のしたいことをしてはいけませんか」と言った。確かに朝一番に来た労働者は主人と1日1デナリの約束でぶどう園に来た。主人とその人の間で約束違反はないので労働者も否定することはできなかった。
《最後の人にもあなたと同じだけ与えたい(13~16節)》
主人が自分のものでしたいこととは「私はこの最後の人にも、あなたと同じだけ与えたい」(14節)ということだ。だれにも雇ってもらえず、朝早くから夕方まで、ずっとみじめな気持ちで立っていることしかできなかった最後の人にも同じ1デナリを与えたいという一方的な主人の愛の心だ。人はみな神様の前では無価値で役に立たない存在だ。それは罪のゆえだ。その罪からの救いのため神様は御子イエスを地上に送ってくださった。イエス・キリストの十字架の犠牲の死と復活を信じて御子イエスを救い主として受け入れる者を神様は天の御国に招かれる。独り子をさえ惜しまず与えてくださった父なる神の大きな愛のゆえに天の御国では自分を高くする者は低くされ、自分を低くする者は高くされ、先の者が後になり、後の者が先になる。神様は今日・・・も天の御国の住人である働き手を探してご自分のもとに招いておられる。「あなたも私のぶどう園に行きなさい」との御声を今日聞くなら、私たちもすぐに従い行こう。