2024年7月14日・・・栄光は試練の後に輝く
むしろ、キリストの苦難にあずかればあずかるほど、いっそう喜びなさい。キリストの栄光が現れるときにも、歓喜にあふれて喜ぶためです。1ペテロ4:13(12-19)
ペテロは先に、聖徒たちは善を行って試練にあうよう召されたと告げましたが、それが幸いとはなかなか受け止められないものと思います。改めて、聖徒に与えられる試練が栄光に至るものであることを確かめましょう。
《試練は、キリストが現れる時に歓喜に至るための主の計画です(12-13)》
教会の間で燃えさかる試練は、強く輝く者とするための神の「精錬」の働きです。教会の中に、異なった者(=毒麦)たちが入ってきます(マタイ13:25-40)。外から迫害しても教会を勢いづかせるだけだと気付いたサタンは、毒麦を忍ばせて教会を損おうと今も働いています。主がそれを許されたのは、それを通して、教会が正しい信仰がどんな信仰かをはっきりさせるためでした。また試練を通して、試練に負けない揺るがない信仰と人格が築かれます。この試練は、喜びをもたらす産みの苦しみなのです(ガラテヤ4:19)。今私たちも産みの苦しみをしています。新しい教会を産む苦しみ、牧者を産み育てる苦しみ、また信仰を受け継がせる苦しみ、です。この労苦を共に負って、主に聖められ、強められていきましょう。
《御名のためののしられることは御霊が留まっている幸いのしるしです(14-16)》
主の御名のためにののしられる、とはどういうことでしょうか。キリストを信じようとしない人から反発を受けることがあります。また主のために仕えようとするなら、未熟や役割りの重大さのために、批判されることはなくなりません。それを謙遜に受け止めて、奉仕者として成長して行くことが大切であり、奉仕の一番の目的です。主は私たちを守り助けて成長させ、報いてくださいます。但し「自業自得」の苦しみは無くしていく必要があります。`労苦を避けてお客様状態を続ける結果、孤立し満足できないこと。また批判や助言を拒む「王様の奉仕」になって、仕える事が逆効果になってしまうこと、などです。神はその試練を通して私たちを訓練し、栄光をあらわしてくださいます。これこそが十字架の主に従う道です。
《さばきは教会から始まり、福音に逆う者の結末はもっと厳しいのです(17-19)》
主は、終りの時のさばきを神の家(=教会)から始めました。まず教会が内外からの困難を経験し、その困難の中で主がどのように教会を守り導くかを、人々に示されます。信じない人たちは、聖書や教会を簡単に無くせると考えて迫害してきました。しかし教会は試練に遭う程に確信を強め、喜びますます大胆にキリストを証ししてきました。また、誤った教えを伝える人々が入り込んで教会が混乱する状況、宣教や信仰継承の困難に苦しむ教会を見て、古く価値がないと批判するようになります。しかし主の教会は、神とキリストの福音の上に築かれ立っており、よみの力に勝利します(マタイ16:18-19)。主は決して見捨てず試練の中で守ってくださり、すべての事を益としてくださいます。主に信頼する者は失望させられません。主とみことばにより救われ支えられているからです。福音に従わない人々は、終わりのさばきでどうなるでしょう。唯一の救いと希望の道を拒んだら、他に救いはありません(使徒4:12)。苦難は、私たちが確かな土台に立っているかを明らかにします。