2024年7月28日・・・私たちの良い牧者、キリスト
わたしは良い牧者です。良い牧者は羊たちのためにいのちを捨てます。ヨハネ10:11(1-18)
神は自身を羊飼いに、民を羊に譬えて、ご自身と民との関係を教えました(創48:15)。また指導者を自身の羊を飼う牧者と呼びました。そして堕落して民を苦しめる牧者たちを除いて、ご自身が牧者を立て民を救うと告げました(エレミヤ23:2-3)。聖書の預言の通りに、キリストが私たちに与えられた良い羊飼いであることを共に確かめましょう。
《神の羊は、真の牧者の声を知って従います(1-6)》
羊が安心して休むことができるために囲いが用意されていました。盗人は出入口でなく塀を乗り越えて来る者は、羊を喰い物にする盗人で強盗です。門から入る者が「その羊の牧者」であり、門番は羊飼いのためには門を開きます。羊飼いは自分の羊をみな引き出して牧場に連れて行き、羊は自分の羊飼いの声を知っているので、彼について行きます。他の人には従って行きません。譬えの中で、「羊」は神に従う人たち、「盗人」は人々を喰い物にする者、真の牧者は、羊を正しく導き、羊が従う者です。聞いていた指導者たちは、この話が何のことかを理解できませんでした(6)。彼らのプライドが、盲目にしてしまっていたのです。《主キリストは羊の門です(7-9)》
羊の門は羊の囲いの出入口、そこに、羊飼いの番人がいて、不審者や猛獣が入って来ないように守ります。そこを通らない者は、みな盗人で強盗です。民を喰い物にしてきた指導者たちによって、民は「羊飼いのいない羊の群れのように、弱り果てて倒れてい」ました(マタイ9:36)。キリストの前に来た者は、盗人で強盗でした。主キリストは、神の羊が平安を得ることができる「羊の門」でもあります。そこを通って羊は、平安を受けることができます(6:35,10:9)。神の子羊である主キリストは、まことのいのち、また神のもとに至る羊の門です(6:37,14:6)。私たちは、キリストを通って入らない偽牧者に従ってはなりません。神の羊として、羊の門を通って出入りしてこそ、安全であり満ち足ります。《主キリストはよい牧者です(10-18)》
主は続いて、雇い人である牧者と良い牧者の違いを告げました。雇い人の牧者は、羊よりも自分の収入といのちの方が大切なので、危険があると羊を守りません。しかし良い牧者は、羊を守るためにいのちをかけます。良い牧者である主キリストは、自分の羊を知っています。いくら数が多くても一人一人を気にかけており、間違うことがありません。また主キリストは、いのちを捨まてす(11)。主イエス様は、私たちを罪から救い出して守るために、ご自身のいのちを犠牲にされました。また主はさらに多くの羊を御自身の元に導き一つにしようとしています。アブラハムへの約束の通りに、すべての国民を永遠のいのちにあずからせるためです。その群れは「一人の牧者」となります。教会は全体で一致して人々をキリストのもとに導き養う働きをします。主は再度「羊のために自分からいのちを捨て、いのちを再び得る(復活する)」と宣言しました。この方こそ、私たちの真の羊飼いです。