2024年8月11日・・・謙遜と信頼こそ祝福の道
ですから、あなたがたは神の力強い御手の下にへりくだりなさい。神は、ちょうど良い時に、あなたがたを高く上げてくださいます。1ペテロ5:6(5-7)長老への勧めに続く、若い人たち(これからさらに成長していく者)への勧めを共に見て行きましょう。
《牧師がキリストに従うように牧師たちに従いなさい(5a)》
3節には長老に対して、支配するのではなく模範となるよう命じています。主キリストは天の父に信頼し従い、父のみわざを行なわれ、弟子たちに自身に倣うよう命じました。そして長老たちは、キリストにならって主に倣い従い、若者(これから成長する兄姉)は、長老たちに倣って、自分も主に倣うのです。キリストに倣うことは、人の力ではどんなに努力しても不可能です。しかしキリストを信じた時、その人はキリストと共に罪に対して死んで罪の支配から解放され、復活して罪と死に勝利された主と共に生きる者とされたから、それが可能となったのです(ローマ6:7,ガラテヤ2:20)。「従いなさい」との命令は強制されて服従するのではなく、自ら模範に倣って実践することです(1コリント11:1,ガラテヤ4:12)。《謙遜を身につけなさい。最善の時に高くされます(5b-6)》
キリストに倣う道は、身を低くして(謙遜になり)仕える道です(ヨハネ13章の冒頭にある「洗足」の実践の通りで)。その謙遜とは、自分の足りなさを思い知って、高ぶってはいけない、と自分を戒めるだけではありません。むしろ、信頼し・感謝し・愛する故に、自分を後にして相手を大切にすることです。そして相手のために喜んで犠牲を払い、喜んで従い仕えます。こうして主への愛と信頼と従順の祝福を知って、主が自分のすべてになっていただくほど、主を高く自分を低くするのです。主イエスは御父に信頼し、頼り、従う事が、自身の喜び・いのちとなっていました(ヨハネ5:30)。謙遜にされる人は、仕えられるのではなく仕え、非難するのではなくとりなし、受けるより与えようとします。祝福は、謙遜を身につけてない人を高ぶらせて、せっかくの祝福が仇になってしまう危険があります。ですから主は、失望や恥や屈辱の試練を与えて、私たちを謙遜に造り変えた上で、祝福を与え、最善の時に高くされるのです。