2024年9月29日・・・救い主を待ち望む
嶋田靖史兄しかしあなたがた、わたしの名を恐れる者には、義の太陽が昇る。その翼に癒やしがある。あなたがたは外に出て、牛舎の子牛のように跳ね回る。
マラキ4:2(3:10-18)
教会生活に慣れて来ると、信仰は惰性になってしまうことがあります。心から喜んで救い主を待ち望む信仰について考えてみましょう。
《神に仕えるのは無駄なことなのか?》
マラキが預言した時代は信仰の停滞期に入り、救い主を待ち望むことに無関心になっていました。「高ぶる者を幸せ者と言おう。悪を行っても栄え、神を試みても罰を免れる」という言葉が神を信じている人達から出てきていました(3:15)。それに対して神は怒られるが、神を信じる者たちには、記憶の書に記され、私の宝とまで言われています。私達が神に仕えることは無駄なことなのでしょうか。神を信じる者と信じない者とに取り分けられる日・・・が来ると、マラキは預言します。神は私達を愛されています(ヨハネ3:16)。神の宝とされている恵みを覚え、神様に仕えることは無駄ではなく、永遠の約束に繋がる道であることを覚えましょう。
《私達の信仰が試されている》
「十分の一をことごとく、宝物倉に携えて来て、わたしの家の食物とせよ。こうして私を試してみよ」(3:9)。神が自分の思い通りになるかどうかを試してはならない。神に従うことによって、結果がどうなるかを試せ、と言われます。「あなたがたのために天の窓を開き、あふれるばかりの祝福を注ぐかどうか」(3:10)。喜んで自分の意志で献げる者に、恵みを与えられます。神は、信じてやってみなさいと言われています。神を試すのではなく、私達の信仰が試されていることを忘れてはなりません。
《心から救い主を待ち望む》
マラキは世の終わりが来ることを預言します(4:1)。しかし日・・・常の生活の中で、救い主が来られる気配を感じることは難しいものです。この時代と同じように、私達も信仰に対して慣れが生じ、無関心に成りかねません。救い主を待ち望むようにと、民に告げています。「それは、わたしが来て、この地を聖絶の物として打ち滅ぼすことのないようにするためである」(4:6)。裁きの日が来ること、救い主が来られる希望を預言しています。再臨の時にクリスチャンは天に引き上げられます。私達はイエスが再び来られる日・・・を心から待ち望んでいるでしょうか。義の太陽が昇り、私達の翼には癒しがあり、外に出た子牛のように飛び跳ねる日が与えられる(4:2)。この福音を宣べ伝える為に教会は存在しているのです。恐れることはない。神を信じる者には溢れるばかりの祝福を注ぐと約束されているのですから。