2025年2月16日・・・罪を認めてこそきよめられる
もし私たちが自分の罪を告白するなら、神は真実で正しい方ですから、その罪を赦し、私たちをすべての不義からきよめてくださいます。1ヨハネ1:9(8-10)
自分の罪を認めて告白することが、どんなに尊いこと、大切なことであるかを確かめましょう。
《罪を否定することは自分を欺いてキリストを拒むことになります(8)》
ヨハネは「私たち」と言って、同じ立場で語りかけています。聖書はすべての人が罪を犯した、と告げています(ローマ3:10-11,5:12)。聖書の言う罪は、聖い神の前に本来あるべき状態(愛・信頼・従順によって神と結びついている)から外れていることです。「もし自分には罪がないと言うなら」私たちは自分自身を欺いてしまっている状態です。罪があるかどうかは、聖書の命令の一つ、例えば「あなたの隣人を自分自身のように愛しなさい」を完全に実行できるかを確かめれば明白です。それは、重病なのに健康だと言い張るのと同じです。イエス・キリストは言われました。「医者を必要とするのは、健康な人ではなく病人です。わたしが来たのは、正しい人を招くためではなく、罪人を招いて悔い改めさせるためです」(ルカ5:31-32)。そして罪を否定することは、罪から救ってくださる唯一の方であるキリストを必要ないとし、罪に留まる事になります。
《罪を告白するなら、神は罪を赦し、きよめてくださいます(9)》
ヨハネは使徒である自身も含め、きよめられるべき罪が残っていることを認めた上で、「もし私たちが自分の罪を告白するなら」と告げます。「神は真実で正しい方」です。罪深く不真実な私たちにも「真実」に、愛と思いやりをもって関わってくださいます(2テモテ2:13)。キリストの十字架の犠牲のゆえに、神は、罪を告白する者の罪を赦し罰を取り去って、正しい者として受け入れて恵んでくださいます。また、その罪から生じるすべての不義(=正しくない状態や行い)をきよめて神に受け入れられる状態に回復されるのです。「雨降って地固まる」ように、罪から来る試練や困難が、私たちを悪くするのではなく、かえって神や人々との絆が深く幸いなものになるように用いられてゆくのです(ローマ8:28)。
《罪を否定するなら、神と神のことばは私たちの内にありません(10)》
「罪を犯したことがない」と主張することは、最初の人類が堕落し罪が全人類に広がったと指摘することを、全否定することです。それは聖書を拒み、聖書を与えられた神を拒むことです。イエス様がユダヤ人たちに、彼らを自由にするために来たと告げた時、彼らは、「今までだれの奴隷になったこともありません」と解放の必要を否定しました(ヨハネ8:33)。自分の罪を否定することは、罪を指摘する神を拒み、神が与えた聖書そして聖書に約束された唯一の救い主であるキリストを拒むことです。拒んだ状態で、神とみことばの恵みを受けることはできないのは明らかです。しかし神は、私たちの父になるために世界を創造し、忍耐をもって導き、約束の救い主を送って下さいました。主キリストはこう招いておられます。(マタイ11:28)「すべて疲れた人、重荷を負っている人はわたしのもとに来なさい。わたしがあなたがたを休ませてあげます。」