2025年2月23日・・・義なるイエス・キリスト
私の子どもたち。私がこれらのことを書き送るのは、あなたがたが罪を犯さないようになるためです。しかし、もしだれかが罪を犯したなら、私たちには、御父の前でとりなしてくださる方、義なるイエス・キリストがおられます。1ヨハネ2:1(1-2)
使徒ヨハネは、この手紙を通して、本来の福音を再確認しています。神と聖書を中心とした信仰を、この世と人間を中心にする信仰に変えてしまおうと偽教師が入り込んでいたのです。この「的外れ」を本来の状態に回復するのが、義であるキリストの救いであることを再確認しましょう。
《罪が赦されるだけでなく「罪を犯さないようになる」福音です(1a)》
罪とは「本来の幸いなあり方が損なわれている状態」です。本来良いものである「自由や平等や平和」を求める働きさえも、方向を失ない暴走して、調和を破壊し、目標である幸せに至らないのが、悪魔の導き、罪の結果です。キリストは十字架で私たちの罪の負債と罰を身代りに負って、赦しをもたらしました(イザヤ53:6-10)。またその救いは罪の赦しだけでなく、私たちが罪を犯さないようになるためです。キリストは肩代りするだけでなく、私たちの新しい生き方の道を切り開き、幸いな未来に向けて歩めるようにされたのです。そのために、キリストは私たちを新しく生まれさせ、罪に支配され神と断絶した人から、罪に勝利し、神と共に生きる人に造り変えてくださったのです(2コリント5:17)。それは、罪を否定し、改良して問題を解決しようとする世の考えとは全く違うものです。
《罪を犯しても、義なるキリストが味方になってくれます(1b)》
「もしだれかが罪を犯したなら」、これがクリスチャンの現実です。信じた時「神の前の立場」は完全で、キリストと同じ神の子どもとされました(ヨハネ1:12他)。立場は一新しますが(ローマ6:11)、染み付いた考えや習慣がなかなか抜け切れません。しかしキリストは私たちを決して見捨てません。共に生き、共に歩み、共に重荷を負い、私たちの味方となってとりなし、守り励まし助け導き、神の子どもとして完成させてくださいます。結婚式はその象徴です(エペソ5:26-27)。《キリストは「世全体の罪のために宥めのささげもの」です(2)》
神のなだめは「お互いさまだから」と怒りを落ち着かせる働きではありません。きよい神の前に犯した人の罪は、一方的に私たちの責任です。「お互い赦し合いましょう」という人間の同士の宥めは、神には全くふさわしくありません。キリストは父の命令に従い、罪の全くない方なのに私たちのため苦しみ、私たちの咎のためにご自身のいのちを犠牲にされました(ヨハネ10:17-18)。この御子のとりなしの故に、私たちの罪への神の怒りは完全に鎮められ、神は御子を受け入れるように私たちを子どもとして受け入れてくださるのです。キリストは、全時代の全世界の人々の罪を赦して、神が恵みの御顔をもって臨まれるための、犠牲となられました。キリストを求めて、神の愛顧を受けられない人は一人もいません。罪が赦されるだけでなく「罪を犯さないようになる」福音であることを確信して、きよさを求めて歩みましょう。