2025年5月18日・・・だれでもわたしについて来たければ
高木正勝だれでもわたしに従って来たければ、自分を捨て、自分の十字架を負って、わたしに従って来なさい。マルコ8:34(27-38)
ピリポ・カイサリヤはイエス様が初期伝道の拠点としたガリラヤ湖から北に40㎞離れたイスラエルの一番北の地方、ヘルモン山のふもとの村だ。ヘルモン山の雪解け水が泉として湧き出る豊かな地だ。同時にピリポ・カイサリヤは偶像礼拝が盛んな土地だった。イエス様はそこで弟子たちに大切な教えをお語りになられた。
《イエス様をだれだと言うか》
イエス様は弟子たちに「人々は私をだれと言っているか」とお尋ねになられた。弟子たちはバプテスマのヨハネやエリヤだと言う人たちや預言者の一人だと言う人もいると答える。旧約聖書にエリヤをはじめ多くの預言者が不思議な力ある奇跡を行い、やがて時が至ってユダヤ人の救い主(メシア)が到来することを預言した。旧約聖書の最後の預言者であるマラキ書が書かれて以来400年間、預言者は現れなかったが、人々は奇跡を行うイエス様を昔のエリヤのような力ある預言者の再来と考えた。イエス様は再び弟子たちに尋ねる。それでは、あなたがたはわたしをだれだと言うかと。ペテロがイエス様に「あなたはキリストです」と答えた。《イエス様はどのようにして人を救うか》
それからイエス様は弟子たちに、ご自身が多くの苦しみを受け、長老たち、祭司長たち、律法学者たちに捨てられ、殺され、三日・・・後によみがえらなければならないと弟子たちに教えはじめられた。するとペテロはイエス様をわきにお連れしていさめ始めた。「主よ、とんでもないことです。そんなことがあるはずはございません」と(マタイ16:22)。人々はイエス様が行われた数々の奇跡を見て世に来られるはずの預言者(ヨハネ6:14)でありローマ帝国の支配からイスラエルのために国を再興してくださる方(使徒1:6)であると期待した。イエス様に向かって「あなたはキリストです」と告白したペテロも同じだった。自分たちが期待をかけるイエス様が、捕らえられ、殺されてしまうことなど到底受け入れることはできなかった。しかし、イエス様は振り向いて弟子たちを見ながらペテロを叱って言われた。「下がれ、サタン。あなたは神のことを思わないで人のことを思っている」。《イエス様に従っていくには》
イエス様はたとえ人が全世界を手に入れても自分のいのちを失ったら何の益があるかと諭し、人が自分の力で自分のいのちを救おうと思うならそれを失うが、イエス様と福音のためにいのちを失う者はそれを救うと教えられた。福音とはイエス様の受難と死、そして復活(31節)を信じて永遠のいのちをいただくことだ。イエス様はこのことをはっきりと話された(32節)。福音を信じることは信じない古い自分のいのちを失うことだ。信じたならキリストの前に古い自分は死んで主イエスにある新しいいのちがすでに与えられている。「私はキリストとともに十字架につけられました。もはや私が生きているのではなく、キリストが私のうちに生きておられるのです(ガラテヤ2:19-20)」。
主は私たちの不完全さをご存じで「わたしに従って来なさい」と召してくださる。聖霊の助けをいただきつつ神を思う者へと成長させていただこう。