2025年6月8日・・・キリストによって愛がわかった
キリストは私たちのために、ご自分のいのちを捨ててくださいました。それによって私たちに愛が分かったのです。ですから、私たちも兄弟のために、いのちを捨てるべきです。1ヨハネ3:16(11-17)
神の子どもとされたしるしである「兄弟愛」が、キリストを信じる者の内に、どのように実現しているのかを、この箇所を通して確めましょう。
《愛し合うべきだが、愛を実行できない現実(11-12)》
愛すべきだと判っていながら憎んでしまうのは、罪に支配されているからです。最初の人類アダムとエバが神のことばを破ったために、人は罪と死に支配されるようになりました(ローマ5:12)。アダム夫婦の息子、カインとアベルは、それぞれ自分が働いて得たものを、神への礼拝のささげものとしました。アベルのささげものは神に受け入れられましたが、カインのささげものは受け入れられませんでした。怒る彼に主は、良いことをしているなら受け入れられる、罪が誘惑しても治めなければならない、と注意しました。しかしカインは、怒りに身を任せてアベルを打ち殺してしまいました。この罪の力は、すべての人に(信じて救われたクリスチャンにも)生まれつきの性質(=肉)の内に、なお働いています。
《キリストがいのちを捨ててくださったことで本当の愛を知った(16ab)》
キリストは、私たちすべての罪と、罪の報いである死を、十字架で一身に負ってくださいました。罪のないお方が、私たちのために罪とされ、私たちのためにいのちを献げて、死んでくださいました。そして約束の通り、三日・・・目に死者の中から復活されました。それは救い主の証明であり、すべての人に分け与えるための、罪と死に対する勝利です(2コリント5:12)。キリストがこの犠牲を払われたのは、私たちを愛する故です。神であるキリストは、ご自分のいのちよりも、私たちのいのちを大切に考え、ご自身の無限のいのちを犠牲にされたのです(ヨハネ15:13)。この愛が、すでにあなたに差し出されています(ローマ5:6-8)。その愛は、この方を受け入れてこそ、受けることができます(ローマ4:24,5:9)。
《神の愛を受けた者は、キリストが愛してくれたように愛する(16c-17)》
キリストによって神の愛がわかります。頭だけでなく体験してわかるものです。遺伝や成育によって、愛が噛み合わないことがあります。しかし、キリストの愛は、愛への障害を乗り越えさせて健全な愛に満たし、安心と満足と表現と受容ができるように、徐々にバランス良く健全へと整えていきます。それを実行できるのは恵みによってです。神の命令は、自分の力で行うことはできません。それは、ただ命じているるだけでなく、そのように神が必ず導いてくださることの保証です。神に愛していただき、神の愛で満される、満たされた神の愛によって、愛を与えるのです。そして、神が満たしてくださった良いことを、神に返すだけでなく、神と共に人々に届けることが、神への感謝の道です。主の愛と恵みは永遠で無限です。与える程に、互いに豊かにされます(使徒20:35)。愛する者をめざしましょう。主は私たちの祈りに答え、さらに恵みと愛で満たしてくださいます。