2025年6月15日・・・かけがえのない真理キリスト
そうすることによって、私たちは自分が真理に属していることを知り、神の御前に心安らかでいられます。1ヨハネ3:19(18-21)
使徒ヨハネは、キリストの十字架により愛が分かったのだから愛を実行しよう、と命じた後で、愛を実行することが、どんな祝福をもたらすかを伝えています。
《キリストを信じたならば、行いと真実をもって愛そう(18)》
世において、人間関係を円滑に保つために、相手を気にかけてることばで語りかける習慣があります。ことばや口で親愛を表わすこと自体は、大切なことですが、いつの間か形だけ口先だけの配慮になってしまいがちです。私たちは、どのように愛を行えば良いでしょうか。第一コリント13:4-7の「愛の章」で聖書は、愛の結ばせる実は、寛容・善意・心遣い・尊敬・謙遜・赦し・真実、信頼、忍耐だと告げています。主の愛に倣い、実際に相手の助け・喜び・平安・なぐさめとなるように務め、愛における成長をめざしましょう。また愛が真実であるように、偽りを避けます。こうして真実で聖い愛の交わりを育むのです(ローマ12:9,1ペテロ1:22)。
《愛することで真理に属していることを知り、御前に平安でいられる(19)》
愛を実行することは、自分を愛してくださったキリストに倣うことです。それはキリストが期待し喜ばれることですから、主に求めるならば、主が必ず実行させてくださいます(5:14)。求めるものを主は与えてくださるのです(マタイ7:7)。こうしてキリストに従っていること、キリストに導かれていることで、キリストのものとされていることを体験することができます。キリストに属することこそ、真理に属することです(ヨハネ14:6)。こうして神に喜ばれていることを実感する時、主にある平安に満たされて歩むことができます。
《心が責めても、神は受け止め、平安と確信に導かれる(20-21)》
キリストに従い愛を実行しようとする程に、それができない部分に気付かされて、苦しくなることがあります。信じる前は、皆やっていることだから仕方ないと思ってしてきたことが、健全で敏感な良心にされて、これではいけないと自分を責めるようにされたからです。パウロも救われた時、価値観が変えられました。彼は、自分の自負が誤った考えだと気付かされました。そしてキリストのように歩みたいと願っているのに、できない自分に失望したことを証ししています(ローマ7:23-25)。しかし同時に、パウロは主にあって感謝しています(ローマ7:25-8:2,11)。キリストは、罪に支配されている私たちの死ぬべきからだを、聖霊によって神と共に生きるようにしてくださる。大きな愛をもって私たちを赦すだけでなく、私たちを神に喜ばれるきよく傷のないものに完成してくださる。この希望があるので、私たちは足りないところを思い知らされても、やがて何一つ傷も汚れもない者とされることを楽しみに進むことができます。ですから私たちは、自分が不十分だからと言って心を責める必要ありません。逆に神の御前で、これで良いと確信し平安と希望の内に歩めるのです(3:21)。また心に責められることで、どこがきよめられる必要があるのかを知り委ねる時に、キリストが悪いところを癒やし聖めてくださるからです。真理とは、信頼する者を失望させない拠り所、それがキリストです。