2025年7月6日・・・捜し求める神
あなたがたに言います。それと同じように、一人の罪人が悔い改めるなら、悔い改める必要のない九十九人の正しい人のためよりも、大きな喜びが天にあるのです。
ルカ15:7(4-10)
罪深い人たちを主イエス様が受け入れ教えていると、宗教指導者たちは罪深い者の仲間になっている、と非難しました。そこで主は、神様が失なわれた者をどんなに愛して救おうとしておられるかを三つの譬えをもって教えられました。今朝はその前半の二つの譬えを見てゆきます。
《失なわれた羊のたとえ(4-6)》
100匹の羊を所有している人がいました。そのうち1匹がいなくなったら99匹を野に残してその1匹を見つかるまで捜し回ります。見つけたら担いで戻り、近所の人たちに、いなくなった羊が見つかったことを知らせて、皆でよろこぶはずです。それと同様に、一人の罪人が神のもとに帰ったら、天にいる神と御使いたちには、既に神のもとにある99人の正しい人のことよりも、大きな喜びが沸き上がるのです。羊は羊飼いのもとにあってこそ安全なように、人は神と共に歩んでこそ安全で幸せです。しかし、すべての人は神から離れて歩んでいます。最初の人類から何世代にも渡ってです。人は、羊飼いのもとから離れてしまった羊のように、真の飼い主である神のもとから離れて迷っていて、自分では神に帰ることができません(イザヤ53:6)。罪とは、本来の幸いな状態から堕ちてしまっていることです。しかし神様は、一人一人を愛して(イザヤ43:4)ご自身のもとで幸いに歩めるように、回復するのを心から願っておられる。そして御子イエス・キリストをこの世界に遣わし、神のもとに連れ戻して祝福しようと今も働いておられます(ヨハネ3:16,6:39,ルカ19:10)。
《失なわれた銀貨の譬え(8-10)》
女性は、古い銀貨10枚を持っていました。おそらく記念品です。しかしこの貴重な宝のうち1枚がなくなってしまいました。当時の家は昼間でも暗く土間でした。彼女は、明かりをつけ、家を掃いて、注意深く一枚の銀貨を、見つかるまで熱心に捜しました。またこの女性は銀貨を見つけた時、近所の女性たちを招いて喜び合いました。同じように、主も、私たちを探し求めておられます。なくなった銀貨が一つでも欠けてはいけないように、神様の前には私たち一人ひとりが欠けがえのない存在です。主は見つかるまで熱心に捜し求め、一人が神のもとに立ち帰ったなら、神と御使いたちは、天で盛大に喜ぶのです。世界の人口は、現在約80億人、2000年前には推定28億人とのことです。その中の一人は、ごく僅かですが、天におられる主と御使いたちは、その一人の救いを大きな出来事として喜び記念とするのです。人がキリストを信じて救われる事は、人が本来戻るべきところに戻っただけです。しかし、子どもが迷子になった時、その一人のことをみなで心配して捜し、見つかったら喜び合います。そのように神は、あなたが見つかって神のもとに戻されたことを、大きな事として喜ばれるのです。