2025年7月20日・・・聖なる生きたささげ物
三澤則幸
あなたがたのからだを、神に喜ばれる、聖なる生きたささげ物として献げなさい。それこそ、あなたがたにふさわしい礼拝です。ローマ12:1(1-13)
《神に喜ばれるささげ物》
神に喜ばれるささげ物とはどのような意味でしょうか。創世記の4:4にカインとアベルのささげ物の記事があります。カインは大地の実りをささげ、羊を飼っていたアベルは羊の初子をささげました。しかし神は、アベルとそのささげ物に目を留められました。神はささげ物だけではなくささげる者の心を見られたのです。形だけの信仰やささげ物を神は嫌われます。「わたしは、雄羊の全焼のささげ物や、肥えた家畜の脂肪に飽きた。もう、むなしいささげ物を携えて来るな。わたしの目の前から、あなたがたの悪を取り除け」(イザヤ1:11,13,16)真実で心からのささげ物を神は受け入れてくださいます。それは物の多少に関係しないのです。あの貧しいやもめのレプタ銅貨2枚のささげ物に、このやもめは他の誰よりも多くささげたとイエスは評価されました、「皆はあり余る中から投げ入れたのに、この人は乏しい中から、持っているすべてを、生きる手立てのすべてを投げ入れたのですから。」(マルコ12:44)と、やもめのささげ物をほめられたのです。
《生きたささげ物》
それでは、生きたささげ物とは何をさすのでしょうか。神殿でのささげ物は決められた動物を祭司がほふってささげました。パウロは生きている私たち自身をささげるように勧めます。あのやもめは、持っているその日・・・の生きるすべをささげました、言い換えればその日のいのちをささげたのです。「もはや私が生きているのではなく、キリストが私のうちに生きておられるのです」(ガラテヤ2:20)。この告白こそが生きたささげ物です。私たちの自己目的や達成のための生き方を捨てて神の望まれる生き方をすることが、生きたささげ物であり献身です。その道を歩むかどうかは私たち各自の判断に任されているのです。
《この世と調子を合わせない》
「この世と調子を合わせてはいけません。むしろ、心を新たにすることで、自分を変えていただきなさい。」(12:2)これはこの世の評価や基準で生きることから、神のみこころに生きる、神に喜ばれる生き方に目を移し、世的な価値観から天的な価値観への転換をパウロは勧めます。それは自分を変えていただくことなしには出来ません。自分の力ではなく神に変えていただくのです。ご自分の人生を神へのささげ物とする生き方をされた方がおられます。キリストこそ私たちの救いのために「聖なる生きたささげ物」となられたのす。神のみこころに生きる決心を神は喜んでくださいます。「ですから、だれでもキリストのうちにあるなら、その人は新しく造られた者です。古いものは過ぎ去って、見よ、すべてが新しくなりました」(2コリント5:17)。神様、私を新しく造り変えてください、あなたの望まれる姿に。