2025年8月10日・・・主の与える水
川島実成
しかし、わたしが与える水を飲む人は、いつまでも決して渇くことがありません。わたしが与える水は、その人の内で泉となり、永遠のいのちへの水が湧き出ます。
ヨハネ4:14(13-15)
教会の3年間の目標は「受けるよりも与える方が幸いである。」(使徒20:35)と伺いました。では、生まれながらの人間が隣人に与えることができる水はどんなものなのでしょう?それを踏まえ、主が与えてくださる水について考えます。
《生まれながらの人間が与える水は、また渇く(13)》
今朝のみことばは、主イエスがサマリヤの女性へ伝道した時のみことばです。けれども、角度を変えて見て欲しいのです。イエスはのどが渇いて井戸で休んでいました。そこに、サマリヤの女性が来たのです。それで、イエスは「わたしに水を飲ませてください。」(7節)とお願いしました。そうすると、人と成られたイエスが、サマリヤの女性に水を求めたという構図が見られます。しかし、イエスは「この水を飲む人はみな、また渇きます。」(ヨハネ4:13)と言われたのです。ですから、生まれながらの人間が与える水は、また渇きます。要するに、一時的な満たしでしかありません。人は、誰かを完全に満たすことはできないのです。
《主イエスが与える水は、永遠に渇くことがない(14)》
では、生まれながらの人間は、完全に満たすことができないと考えて、諦めて良いのでしょうか?確かに、私たちは与えることができません。しかし、私たちの信じる主は、決して渇くことのない水を隣人に与えることができます(14節)。しかも、その水は与えられた人の中で泉となり、永遠のいのちへの水が溢れ出るのです。しかも、主の与える水は私たちが与える水とは違って、永遠に渇くことがありません。では、主の与える水とは何なのでしょうか?主イエスは、そのことを別の箇所で、御霊の内住であると教えています(ヨハネ7:37-39)。ですから、内住の御霊が、永遠のいのちへの水を湧き出させるのです。
《御霊によって溢れだした水が、隣人に与えられる(28-29)》
では、御霊はどうしたら与えられるのでしょうか?それは、サマリヤの女性が、「その水を私に下さい。」(15節)と質問したことから分かります。彼女はのどが渇くことのない水を求め、イエスは魂を満たす水のことを伝えていました。両者の考えには、大分違いがあったのです。それでも、彼女が求めた時、イエスは「行って、あなたの夫をここに呼んで来なさい。」(16節)と言われ、その溝を見事に埋めました。だから、彼女は自分の罪を知って、主イエスを救い主と信じたのです。その直後から、御霊の働きは豊かになりました(この時はペンテコステの前なので、内住はしていません)。現実に、この女性は主イエスを伝えずにはいられない衝動にかられ、町の人々に宣べ伝えています。主から受けた水が溢れだし、隣人に分け与えたのです。