2025年8月24日・・・み心がなりますように
嶋田靖史
「私は主イエスの名のためなら、エルサレムで縛られるだけでなく、死ぬことも覚悟しています。」彼が聞き入れようとしないので、私たちは主のみこころがなりますように」と言って、口をつぐんだ。』使徒21:13-14(1-14)
復活のキリストの昇天の後の聖霊降臨から始まった、世界宣教の始まりから、伝道の拡大、パウロたちの3度の伝道旅行の後の、パウロのエルサレムへの旅をこの章は記しています。
《パウロと弟子達への御霊の示し》
パウロは第三次伝道旅行を終えて、シリアに向かいます。目的地はエルサレムです。ツロにいた弟子達は御霊に示されて、「エルサレムに行かないように」と繰り返し言います。モーセの律法に背くように教えている、という完全な誤解によってユダヤ人から憎まれていたのです。パウロ自身も「御霊に縛られてエルサレムに行く」と言っていました(20章)。自分の思いではなく、御霊に導かれてです。御霊の示しは、パウロにはエルサレムに行くという導きを与え、一方弟子達にはパウロに思い留まらせようとしています。矛盾しているようにも思えますが、そこには人間の思いを超えた神様の導きがあるのです。
《パウロを気遣う弟子達とエルサレムに向かうパウロの思い》
エルサレムに向かう理由は、ピリピやコリント教会からエルサレム教会宛に集められた献金を届ける為でした。止める弟子達に対して、パウロは決意を鈍らせることを言うのか。イエスの名の為なら死も覚悟していると言います。弟子達とパウロのやり取りはイエスとペテロのシーンを連想します。「下がれ、サタン。あなたは神のことを思わないで、人のことを思っている」(マルコ8章)。この献金は単なる経済的援助ではなく、異邦人とユダヤ人が一つになる為の証拠としたかったのです(2コリント9章)。著者であるルカは、命を懸けてエルサレムに向かうイエスの姿とパウロを重ね合わせたのでしょう。2人の共通点は、自分自身への賞賛や栄光を望んでいなかったことです。パウロの目的はユダヤ人と異邦人との和解であり、世界宣教の基礎となると考えていました。
《み心を求め従うパウロと弟子達》
「主のみこころがなりますように」。パウロが忠告を聞かないので、匙を投げたから言った言葉ではありません。全て神様にお委ねする、というクリスチャンの基本的な姿勢です。完全な従順と信頼を表しています。イエスは十字架に掛かられる前に苦しみに合われ、「わたしの願いではなく、みこころがなりますように」と祈られました(ルカ22章)。もし苦しいからと言って、十字架から逃げられたら、救いは完成しません。私達は罪故に、自分の願いを中心にして生きて行こうとします。自分の栄光、意思ではなく、神の栄光、意志を尋ねるべきです。神のみ心は愛と恵みに溢れています。人間が思う理想と訪れる現実にはギャップがあるのは事実です。自分達の不安や思いを超えて、主のご計画を信頼することが信仰の勝利です。まだ見ぬ未来に向けて、主のみ心がなりますように、と祈りつつ歩んで行きましょう。