2025年10月19日・・・導き手なるイエス・キリスト
秋山和雄
主は、昼は、途上の彼らを導くため雲の柱の中に、また夜は、彼らを照らす火の柱の中にいて、彼らの前を進まれた。彼らが昼も夜も進んで行くためであった。昼はこの雲の柱が、夜はこの火の柱が、民の前から離れることはなかった。
出エジプト記13章21-22節
イスラエルの民は、エジプトを出発してから荒野を進んで行かなければなりませんでした。そこは食べ物も水も無い所です。また道路もないのです。それで、どう進めばよいのかを教えてくれたのが、雲の柱と火の柱でした。同じように、私達がどのように信仰生活を送れば良いのかを教えて下さるのがイエス様です。
《目的地があった》
イスラエルの民は目的地を目指して進みました。その目的地とは約束の地カナンです。乳と蜜が流れる豊かな地でした。私達も目的地があります。それは天の御国です。私達も天の御国を目指して旅をしているのです。しかし、この世の人達は目指す所がないのです。目指す所がないと人は迷うのです。
《導いてくださるお方がいた》
イスラエルの民が荒野を旅するのを導いたのは、雲の柱と火の柱でした。その中に主がおられたのです。民は「徒歩の壮年男子は約六十万人であった」(12:37)とあるので、全部合わせると百万から二百万人くらいでしょうか。その民を四十年も導くのです。その間「民の前から離れることはなかった」のです。主が共にいて導かれたのです。私達も信仰生活を送る間、主が共にいて下さいます。「見よ。わたしは世の終わりまで、いつもあなたがたとともにいます」(マタイ28:20)、「わたしは、あなたがたを捨てて孤児にはしません」(ヨハネ14:26)、このように約束されています。さらに「彼らの前を進まれた」のです。進むべき道を決めるのは主でした。私達も、主が進むべき道を示して下さいます。たとえそれが試練の道であっても、試練を通して私達の信仰を強めて下さるのです。
《民の罪が赦された》
イスラエルの民は素直な民ではありませんでした。常に不平不満を言っていました。主は、食べ物がないと言えばマナを与え、水がないと言えば岩から水を出し、肉が食べたいと言えばうずらを送られました。しかし不平不満は尽きませんでした。一つには、モーセが律法を受けにシナイ山に上れば、帰りが遅いと金の子牛の偶像を造ったのです。主は怒られ、この民を滅ぼしてモーセから新しい民を起こすと言われました。しかしモーセはこの民を赦して下さいと執り成しの祈りをしたのです。主はモーセの祈りを聞かれて、民を赦されました。私達も、主の前に罪人です。すべての人は罪を犯しています。その罪を赦すためにイエス様は十字架にかかられたのです。そのイエス様を信じるだけで、私の罪は赦され、神様の前に義なる者とされるのです。私達は、しっかりと目的地を見て、共におられる主に感謝しましょう。もし罪を犯しても悔い改めれば、主の赦しがあるのです。