2025年11月16日・・・起きて床を取り上げ、歩きなさい
高木正勝兄
イエスは彼に言われた。「起きて床を取り上げ、歩きなさい。」
ヨハネ5:8(1-9)
エルサレムの神殿の近くにベテスダと呼ばれる池があった。そこには病人、目の見えない人、足の不自由な人、からだに麻痺のある人たちが大勢、横になっていた。そこでイエス様は38年も病気にかかっている人に目を留める。イエス様がどのように病の人を癒してくださったか聖書のみことばからみていこう。
《ベテスダの池で》
ベテスダとはへブル語で「あわれみの家」を意味する。エルサレムの神殿の北側の羊の門の近くにあった人工の池で神殿にささげる羊などのいけにえの動物をきよめるための水を溜めておくための池であった。そこに38年も病気にかかっている人がいた(5)。すでに長い間、横になったままであったとある。当時の寿命からするとこの男の人は人生のいちばん充実できた大切な時をずっと池のそばで横になって無為に過ごすしかなかった。その無念さはいかばかりかと思わされる。
《良くなりたいか》
イエス様は彼が横になっているのを見て、すでに長い間そうしていることを知り彼に「良くなりたいか」と尋ねられた(6)。彼の答えは「主よ。水がかき回されたとき、池の中にいれてくれる人がいません。行きかけると、他の人が先に下りてきます」だった(7)。彼のイエス様に対する答えはややかみ合わない的外れな返答である印象を受ける。もちろん彼は「良くなりたい」と思っていたはず。そのためにほかの誰よりも先に下りて行って池の水に最初に入らなければならないと考えていた。しかし、自分の力では不可能で、人に頼っても間に合わなかった。そのたびに期待がしぼんでゆき、良くなりたいという希望を表わせなくなっていたのだろう。
《起きて床を取り上げ、歩きなさい》
イエス様はそのような彼を深くあわれんで「起きて床を取り上げて歩きなさい」と言われた。すると、その人は治って床を取り上げて歩き出した(9)。私たちは誰でも人生を生きていくうえでさまざまな問題を抱える。自分の力に頼って解決しようとしても人の力で解決できないこともある。しかし神様のことばは人の限界を超えて状況を一変してしまう力がある。この人はイエス様のみことばが自分に向けて語られていることを理解して素直な心で聞いて受け入れた。その瞬間にすぐに治って床を取り上げて歩き出した(9)。この変化はこの人の努力によることではなかった。神の御子イエスのあわれみによって父なる神の全能の力が一方的な恵みとしてこの人に現れされた。この人は自分に必要なのは池の中に入れてくれる人だと考えていたが神様は人の思いをはるかに超える神様ご自身の方法で私たちの問題を解決へと導かれる。元気になった彼にイエス様は「あなたは良くなった。もう罪を犯してはなりません」と告げた(14)。主の救いをいただいた者は、罪を脱し神に喜ばれる生き方を可能とされるから、神に喜ばれる新しい生き方をめざすのである。主のみことばに心を開き、受け入れて救いの恵みをいただこう。